翻訳の面白さ

光文社が出している"古典を新訳で......"シリーズの1冊『ヴェネツィアに死す』を買った。岸美光さんの翻訳。同シリーズでは、『カラマーゾフの兄弟』の新訳が驚くほど人気で、昨今は『蟹工船』か『カラマーゾフの兄弟』かという状況である。カラマーゾフも新訳を買って読んだ。久しぶりに読めば昔とは違った感興があるかと思ったのだが、なにせ読んだのがあまりに昔のことなので、まるで初めて読むような気分である。それもいい。
古典作品には、それぞれ決定訳と呼ばれるものがある。例えば、ドストエフスキーなら米川正夫氏、シェイクスピアなら福田恒存氏というように。だが、どれほど決定訳であろうと、時代とともに風化する部分があるのは仕方ない。そこで、決定訳にとらわれず現代感覚で新しい翻訳を......となるのだが、最近の村上春樹氏の諸翻訳のように、決定訳を意識的に避けようとして(推測だが)、かえって違和感のある翻訳になってしまうことも少なくない。もっとも野崎孝氏の訳した『華麗なるギャツビー』を何度読んでも好きになれず、仕方なく原書で読むことにしている人間にすれば(たいした英語力はないけれど、翻訳で何度も読んでいるので筋を踏み外す心配はない)、村上訳は歓迎なのであるが。
『ヴェネツィアに死す』は、言うまでもなくトーマス・マンの著作『Der Tod in Venedig』の訳で、もっともポピュラーな翻訳は高橋義孝氏の『ベニスに死す』だろう。『ヴェネチア客死』などという題で訳されたものもある。その昔、大学でドイツ文学を専攻し、トーマス・マンの『魔の山』をテーマに卒論を書いて卒業しているので、『Der Tod in Venedig』はドイツ語で読んだこともある。ただし、辞書を1ページにつき10回くらい引き、おまけに翻訳された文庫本を常に広げておきながら......という情けない状況だったが。
だから、あのトーマス・マンの硬質な文章、硬い石材をノミで削り上げるような、まるで篆刻でも彫っているかのような文章が、あまりラフに訳されるのはかえって違和感がある。翻訳について素人ながら言わせてもらえば、原書の雰囲気をできるだけ忠実に再現した結果、日本語になりきっていない翻訳。逆に、読みやすいのだが原書の匂いがきれいさっぱりと消えている翻訳。どちらもまずい。そこを奇跡的にクリアしたものが、名訳、決定訳とよばれて長く神棚にまつられることになる。

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